第15話
「聖ニック&アラン」

ここに1枚のポストカードがある。そこに写るモノクロの写真。
こぼれたビールの染みと、煙草のヤニでセピア色になったカード。
1912年(大正元年)。今から89年も前の出来事だった。
赤いジャージに身を包んだ11人の男達が、1つのトロフィーを賭けて戦った証しである。
もちろんここに写る男達は、もうこの世には存在しない。
正式名称「BARNSLEY・FOOTBALL・CLUB」。
1911−12シーズンの、イングリッシュ・カップのチャンピオンである。
このカードを日本へ持ち込んだのは、宣教師・聖ニックの仕業。
10数年前、バーンズリーFCの布教活動の為、バックの中に詰め込んできたものだ。
慣れないアジアの片隅で、唯一の心の救いとなっていたポストカード。
自分のルーツを忘れないように、彼は上着のポケットにそれを忍ばせ、
夜な夜な六本木へと繰り出した。信じられるものは、アランとバーンズリーFCとビールだけ。
ヨークシャーの暴れん坊は、今より数倍キレていた。
「ようニック、Taって名前のバーが青山にあるらしいぜ」アランが耳打する。
「Ta?Taって、あのTaか?」何度も聞き返すニック。
そして大声で笑い出した。きっとイギリス人の経営する店に違いない。
そう確信した2人は、その週末に早速青山を探索する。
六本木から歩き、乃木坂を抜け、明かりの消えたオフィスビルの前で立ち止まる2人。
「こんなところに店なんてないよ!」苛立つニック。
「でも、この地図でいくともう少し先なんだけど」自信なさげなアラン。
(ここまで来て、ヘンな店だったらいったいどうするんだよ)そう思いながら、
沈黙のまま再び歩き出した2人。
やがて、うっすらとライトアップされた1軒の店が見えた。
木造の扉に緑のペンキ、小さく「Ta−Bar」と書いてある。
「ここだ!」やっとたどり着いた2人は、そのきしむ扉を押し開けた。
するとそこには、2階へと続く階段。
子供の頃、親に内緒で悪さをした、あの懐かしい感覚が2人を襲う。
まるで屋根裏部屋へと向かうような、ワクワクする感じ。
自分達だけで探し出した初めての店。
期待と不安を払いのけ、上がりきったところにある、もう1つの扉を押し入った2人。
「いらっしゃい、何人?」聞こえてきたのは、流暢な日本語。
スキンヘッドのODAであった。
「ビールだったら、エビスかギネスビターだけど」もう1人のスキンヘッド、Mcゴシがたたみ掛ける。
ヒゲに坊主の日本人が、この店のオーナーだったとは。
見事に裏切られたニックとアランは、互いに顔を見合わせて笑い出した。
アイリッシュグリーンを基調とした店内。
ブ厚い1枚板のカウンター。壁一面にコラージュされた、ロックスターやフットボーラーの切り抜き。
そしてBGMは「ヴァン・モリソン」。まさに一目ぼれだった。
苦労して、やっとのことで探し当てた2人の隠れ家。
故郷から遠く離れた、この東京でやっと見つけた秘密の基地。
内ポケットから、1枚のカードを取り出したニック。
「頼みがある。俺はこの店が気に入った。これからもここに来る。だから、このカードを店に飾ってくれ!」
聖ニック&アランの布教活動、すべてはここから始まった。そしてそれは今でも続いている。
良い時も悪い時も、楽しい時も怒った時も、その何もかもをずっと見つめてきた1枚のポストカード。
写真の中の男達も、この店のカウンターがどうやら気に入ったようだ。
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